フィーリング。

例えば、私は某コミュニティ・サイトに登録していて、そこの自己紹介欄には「意外と紳士などチンピラ」と書いている。
この言葉からどんな人物を想像するだろう?
きっと千差万別、十人十色だと思う。
私が意図している意味を汲む人の方が少ない筈だ。私という人物の実像を知らなければ知らないほど、真意とはかけはなれるものなのだろう。


簡潔にまとめられた言葉というのは、ある種の思考的プロセスによって導き出された言葉であり、正確に伝えるためには帰結するに至る思考的プロセスを順を追って説明していかなければならない。説明をどこまで必要とするかは個人差があり、個人差はその人の価値観や感性に起因するのだと思う。
価値観や感性が近しい人に対しては少しの説明で理解してもらえるし、価値観や感性が異なる人に対しては多くの説明を要する。しかも、説明というのは時間も労力も非常にかかる。悲しいことに、いくらじっくりと説明をしても理解してもらえないことも往々にしてある。なぜなら事象に対しての認識の差というものも根底にあるからだ。所謂、フィーリングと言われる類のやつだ。


例に挙げた「意外と紳士などチンピラ」は私に対しての私なりの形容であり、それこそ認識、価値観、感性というものが大きく作用しているのだから、説明のコストは甚大だ。そのコストをかけてまで価値観や感性の異なる人に説明するかしないかは、私が感じるその人への説明の必要性によってしまうのだから随分と利己的だ。だから、何か共通する話題や共通の体験を通して、他人との共通理解を求める。そんなコミュニケーションを私はしている。
共通する話題や共通する体験、そして思考的プロセスの説明をしても共通理解が得られなければ、残念ながらその人とは分かり合えないということになるのだろう。


しかし、実際そこまでの共通理解などが無くても違いを受容できれば、意外と人とは付き合っていけるものだ。そんなもんである。その違いを受容できず、疑念や疑問が生じてぶつかり合ってしまうのであれば、それはそこまでだ。合わない人だというお話。ただそれだけだ。かと思えば相性ってやつもあって、同属嫌悪なんて言葉もあるし・・・
人間関係は色々あるものである。