人はなぜ、必ず死ぬのに生きるのか?

今日はネカマ休日。と言っても最近は全然出勤していない。前述の体調不良で欠勤(しかも無断)続きの日々なのだが、正式な休みと欠勤とでは一日を過ごすに当たっての心構えがかなり違ってくる。今日はそういった意味で心身ともに休日なのだ。
さて、用事も無い完全なる休日をいかに過ごそうか・・・そんなことを頭の隅に置きながらネットに興じていると、ビビビッと興味をダイレクトに刺激する催しを発見!

東京大学多分野交流演習「人間の尊厳、生命の倫理を問う」
  特別講義 「人はなぜ、必ず死ぬのに生きるのか?」
  日時 2004年12月15日(水)17時〜19時30分
  場所 東京大学本郷校舎 法文1号館215号教室
  参加費 無料
  講師 田口ランディ
 
  演習趣旨  
人間が尊厳である(ならば、その)思想根拠から現実に生きるアクチュアルな場面での生命倫理の実際まで様々なレベルでの、人間への問いを多分野交流的に問う(前半講義、後半討議)。

田口ランディ・東大・そして無料!
このキーワードに強烈に引き寄せられ、16時40分に本郷三丁目の駅に立っていた。一月ぶりの東大キャンパス。2度目ともなれば心持ちも穏やかだ。格調高い建築の校舎を眺めながら、黄色く色づいた銀杏の葉が舞う舗道をゆっくりと歩く。キャンパス内に漂うアカデミズムと紫煙を共に胸いっぱいに深く吸い込み、じっくり味わう。タバコの味もいつもとは違って感じる。格別な一服だ。
そんな感慨に浸っているうちに、ふと根本的な疑問が脳裏に浮かぶ。
「法文1号館って、どこ???」
時間は16時58分。余裕ぶっこき過ぎである。こうして私はいつも遅刻するのだなぁ・・・構内案内図などは見当たらない程キャンパス内部まで歩を進めていたので、人に聞きながらなんとか目的地に到着。
いよいよ講義の時間である。心中を駆け巡る知的好奇心に昂ぶり、若干の緊張感が漲る。教室のドアを開けると、最初に目に飛び込んできたのは田口ランディさんだ!うわぁ、めちゃめちゃ距離が近いじゃん!一ファンとしてはドキドキである。軽い会釈をして教室内に歩を進めると、人がいぱーいいぱーい。席はとっくに埋まっており、それを囲うように立っている方が既にたくさんいらっしゃるので習うようにして壁際に立つ。前回はシンポジウムだったが、今回は本来学生さん向けのゼミである。確かに学生さんと見受けられる方が多いのだが、ランディさんの人気ということなのだろう、明らかに学生さんではなさそうな年齢の方も非常に多い。私もその一人。どうも浮きに浮きまくっているらしく異様に視線を感じるが、笑顔笑顔。だって楽しみで仕方が無いのだから笑顔になるに決まっている。既に話し始めている教授とおぼしき方も、ぎゅうぎゅうの教室内に普段が勝手が違うなぁといった感じの話し方。今までのゼミの過程を話されてから、いよいよランディさんの講義がスタート。
それにしてもランディさんとの距離が近い。ついつい見入ってしまう。なんとも小柄な方で、さっぱりとした話し方。尊敬するM2の一翼・宮崎哲弥氏にどことなく似ているような・・・そんな事を一人で思っていると、隣の方からプリントの束を手渡される。端から流れてくるプリントから一枚取って隣の人に渡す。その作業を何度か繰り返す。学校の授業で何度となく繰り返してきた行為。この無言の作業、実に7年振りのことで感慨も一入だ。学ぶっていいなぁ。学生だった頃には感じたことのない心持でいっぱいである。6・3・3制の現役学生の頃の私と今の私の心持ちがどう違うのか、よく分かる。学習意欲が決定的に違うのだ。能動的に学習することの楽しさって、こんなにワクワクするんだなぁ・・・


最近ランディさんのマイブームは「寄る」という言葉らしい。寄る、因る、縁る、縒る、依る。複数の関係性を感じる言葉なのだが、「集まる」よりも目的性が低い“ゆるい”ニュアンスを感じる。「集合」よりも“ゆるい”「寄り合い」。寄る、寄り合うことで生じる「場」には、背後には超個的な力が働いていることを予感させられるのだそうだ。
「人はなぜ、必ず死ぬのに生きるのか?」という普遍的なテーマへは道徳・倫理・科学の学問上で論理的な答えは数多く出されているものの、それは日本で言えば明治時代以降に西洋から流入した近代的理性人としての側面でしか語られてはいない。しかし、前近代以前の昔から脈々と受け継がれてきた民間伝承で「自然」の中で生きてきた「暮らし」の側面もある。それは、理性的思考と本能的感情と言い換えることが可能だ。
今回ランディさんは、出産や超ひも理論縄文文化浦河べてるの家水俣病患者の話、痴呆ケアなど自らの取材経験を基に、近代システム社会以前の日本人が持つ根源的な共同体の「寄り合い」とそこに現出する「場」が、外的事象と内的世界が渾然一体となった別次元に近い超自然の時空である事を推察。人はその時空から現実の次元に生まれ、そして死を経てまた存在前の時空に戻っていく。そして、寄り合い、縒り合い、依り合い、因り合う…自立性と他律性が緊密に関係しあうダイナミズムこそが生きることであり、システム社会に委ねられた死のリスクを前近代的共同体の手に取り戻すことによって、システム社会では希薄であった生のダイナミズムを実感できるのではないかという本能的感情に則った結論を導き出し、「生きているのではなく、生かされている。」という簡潔すぎるほど簡潔な言葉で結んだ。


これが前半の講義内容である。やっぱ、ランディさんはオカルト好きだなぁ〜(笑)。すごく共感できるし話がどんどん消化できる。理解するというより、分かるんだ。講義の本質がすごくよく分かるんだ。簡潔な結びの言葉だって、その裏側にある深い思考の過程を経てはじめて、重みのある言葉の真意が分かるんだ。

ランディさんが重要視するコトを心の根に据えて、近代システムを凌駕しアノミー化した現代でどう「寄り合い」、「場」を察知し、システムを超えた共同体を創出するか。現代<いま>をどう生きるのか。講義内容をより実践的に出来るかに思考を向けたい。これが私の感想である。


後半は講義を踏まえての討議タイム。現役東大生達が諸手を挙げて意見を発するが、正直どれもこれも的外れな気がしてならなかった。理論的思考論ばかりで、意見した東大生には本能的感情の話の真意を汲み取れていないのだ。まさに、「場」の空気が読めていない意見(笑)。文と理の意見をもっと「縒り合わせ」た意見交換が出来たら、多角的に本質に迫れてもっと有意義になるのになぁ・・・

理論至上な医学部学生に対してランディさんの隣に座っていた中年の男性の方が述べられた言葉がとても印象的だった。
「医療関係者や葬儀屋の人っていうのは、実は最も死から遠い存在なんだよなぁ。」
死を感情で受け止めることと、死を理論的に理解することの差異が浮き彫りになったなぁと思った。
それに比べて外部からの介護医療従事者の方の意見は、現場ならではの身に迫る意見だったので医学部学生とは対照的で面白かったなぁ。


予定時間を30分延長したものの、あっという間の講義であった。是非また開かれたゼミがあるのなら色々な大学の色々な分野のゼミに参加してみたいと思える有意義な時間であった。
なにやら二次会の話が耳を掠めたが、真っ直ぐ駅へ向かう。こういう場面で私は極端にシャイなのだ(照)。